滝音の棒となる日の飴作り 摂津よしこ
耳底で途切れなく聞こえる滝の低音を棒と表現した感性に脱帽。「滝音の棒となりたる」ではない。「棒となる日」である。瀧の音が記憶の中で棒状に流れている日に、飴作りをしたのである。飴も棒ではあるけれど、滝と飴とは何の因果もなさそうである。とっても変で、訳が分からないけれど素敵な句。というか飴作りなんか普通しないでしょ。(句集『夏鴨』)(北野和博)
滝音の棒となる日の飴作り 摂津よしこ
耳底で途切れなく聞こえる滝の低音を棒と表現した感性に脱帽。「滝音の棒となりたる」ではない。「棒となる日」である。瀧の音が記憶の中で棒状に流れている日に、飴作りをしたのである。飴も棒ではあるけれど、滝と飴とは何の因果もなさそうである。とっても変で、訳が分からないけれど素敵な句。というか飴作りなんか普通しないでしょ。(句集『夏鴨』)(北野和博)