山茶花の夢の上ゆく朝の櫛 摂津よしこ
本棚の「草苑」を整理していて、68号に「鷹」同人の飯島晴子が、「桜鯛」への批評を寄せているのを見つけた。どちらも私が敬愛する鬼才であり、二人に共通の感性を感じていただけに、偶然のうれしい発見であった。俳人として既に高い評価を得ていた飯島が、恐らく当時まだ無名でしかも他結社の摂津の第一句集に稿を寄せたところを見ると、飯島も摂津の才能を評価していたのだろう。ただし内容は儀礼的な称賛は微塵もなく、評価しつつも手厳しい批評もあり、実に飯島らしい。他の幾つかの句とあわせて掲句についても取り上げている。「夢」の部分に傍線がつけられ、傍線の部分は「わからせようと理由を提出したり説明したりして、句を狭く限定していないだろうか」という批評が加えられている。「山茶花の夢」のリアリティーの希薄さ、と。つまり飯島晴子はあまりこの句に共感してなかった。他の部分の飯島の批評は実に的を射たものであっただけに、私にとってこれは意外であった。
私は、掲句を一読して驚嘆した。これは神の俳句だとすら思った。読み落としてはいけないのは、作者の前に鏡があるという点だ。朝の櫛を使うのに鏡に向かわない人はまずいない。鏡には自分の顔が映っている。そして山茶花の夢の残渣がぼんやり見えているのは自分の目線のあたりだ。自分の顔と夢でみた山茶花の鮮やかな赤が、二重の映像となって鏡に映っているのだ。その上に腕が伸びて自分の髪の毛を櫛が行ったり来たりしているから、「夢の上を櫛がゆく」のだ。摂津が本当に山茶花の夢を見たかどうかは疑わしい。それが夢のリアリティーの無さという批判に結びつくのだが、この句の狙いはそこではない。山茶花の夢はリアリティーが無くても、鏡の自分の顔の前に立ち顕れる山茶花の赤は強烈なリアリティーを持っている。摂津は夢のリアリティーより映像のリアリティーを選んだのだ。(句集『桜鯛』1975年)(北野和博)