土堤を外れ枯野の犬となりゆけり 山口誓子
自解とは、時にはやっかいなものになる。掲句についての誓子の自解を一部引用する。
「(前略)犬が一匹、川沿いの長い堤を走っていた。その堤に、彼野へ下りて行く道があった。いままで堤を走っていた犬は、堤に別れて、その道を下り、枯野を走りはじめた。堤を走っていたときと同じ速さで、枯野を走った。犬の道は、はじめは堤の道だった。だから、犬は堤の犬だった。犬の道は、堤の道から枯野の道に切り替えられた。だから、犬は枯野の犬となった。堤の犬が枯野の犬になったのだ。作者の私も、犬とともに走っているから、川沿いの包みを眼にし、急転換して枯野を眼にしているのだ。(後略)」。
おそらくこの自解が原因で、その後多くの俳人が、犬が走っている躍動感をこの句の魅力とすることとなったようだ。先入観なしにこの句を鑑賞してもらいたい。犬が走っている躍動感などは、微塵も感じられない。そこに立ち顕れるのは、殺風景な枯野の中を、あてもなくとぼとぼと去ってゆく一匹の哀れな野良犬の姿である。だから、この句は素晴らしいのだ。作品は作者を離れて独り歩きする。言葉は作者だけの物ではないのである。(『山口誓子自選自解句集』講談社)(北野和博)