高き燕深き廂に少女冷ゆ 飯田龍太

 

 

龍太の自選自解に「この作について、多くの人が、亡くなった子への憶いを宿す句だ、という。それが隠せるならいっそ隠しておきたい。それが正直な感想である」と記されている。龍太は次女を亡くしており、それを知る人は先入観でそう読んだのだろう。しかし、詩はそれ自体が作品として独立したものでなければならないし、読み手にとっても先入観を捨てて作品と対峙しなければ、作品は真の姿を顕してはくれない。作者が「隠せるものならいっそ隠しておきたい」と記したのは、作者周辺の先入観からくる安易な解釈を暗に批判しているように感じる。着想の発端はどうであれ、掲句は別の作品に昇華されていると私は思う。言葉のベクトルが悲しみの方向には向いていないからである。詩を読むという事は、言葉のベクトルを読み取ることである。いや、それ以前に掲句の構造は「燕」と「少女」であり、そこへあえて「作者」を足して読む必然性が私には感じられない。さて、前置きが長くなったが、みなさんは掲句をどう読みましたか。私には思春期を迎えた少女の体と精神の変化への戸惑いと不安、そんな風に読みました。解釈の鍵は「高き燕」と「深き廂」かな。(『現代俳句歳時記』実業之日本社)(北野和博)